住まいづくりコラム

阪神大震災から27年

こんにちは森田です。

今日は1月17日で阪神大震災から27年経ちました。

当時、私は兵庫県宝塚市で被災しました。

その時の体験記をご紹介させてもらいます。

1995年1月17日、丁度あの時は、兵庫県宝塚市に住んでいました。
自宅は「一部損壊」阪神大震災の被災者であります。
当時は高校で2年生の担任で、体育教師をしておりました。

この日は「創立記念祝賀会」ということで、いつもより少し早起きをしなければならず、5時30分に目覚ましをセットしていましたが、すんなりと布団からとび起きることが出来ずに何回も目覚まし時計のスイッチを止めていました。

と言うのも、昨晩は生後三ヶ月の長男の夜鳴きがひどく、なかなか眠ることができずにいたのです。
そんな風に布団の中で寝ぼけていると、運命の『5時47分』、急に床が縦に「ガタン、ガタン」と大きく揺れ始めたのです。

たぶんこれは「悪い夢を見ているんだ」と思いました。
生まれてから、このような恐ろしい経験は一度も無いからです。

考えている暇もなく、あっという間に目の前の大きなタンスが自分の方に向かって倒れてきました。
『ドーン、ドーン』何かがぶつかる大きな音。『ガッシャン、ガッシャン』何かが大量に割れる大きな音。
この悪夢が、いつまでも続いていることに苛立って『もうええ、早よ終われ!』と大声で叫んだのを覚えています。
早く悪夢から覚めろよ!リアルすぎるぞ!という意味でした。

しばらくすると、また元の静けさに戻りました。
私は横に寝ている家内の無事を確認することもできず、あっという間にタンスの下敷きになっていました。

しばらくして、揺れはおさまりましたが、家の家財は無茶苦茶な状況。

▲食器棚は倒れてキッチンはガラスの海に

真っ暗な中、家内に声をかけました。
そして、ぞーっとしたのです。
タンスの扉が倒れた拍子で左右に開いて、その扉と扉の間に家内の頭がありました。

▲家族3人で寝ていた部屋。夫婦共にタンスの下敷きになりました。

扉が開いていなければ、間違いなく彼女の頭に直撃だったと思います。
「何とか大丈夫」という家内の声が聞こえてきたのでホッとしました。

と思った瞬間、「健ちゃんは?」と彼女は叫びました。
生後三ヶ月の長男の泣き声も何も全く聞こえません。
「おーい健、健・・・」と彼の名前を必死で何回も呼び続けました。
私もタンスの下敷きになっていましたが「火事場のくそ力」でたんすを押しのけて、赤ちゃんを探しました。

普段は川の字で真ん中に寝ていたので、家内の位置に赤ちゃんが寝ていたのです。前日、夜鳴きが酷かったので、翌朝、出勤の早い私に配慮した妻が、たまたまいつもと違って一番右端に赤ちゃんを寝かせていました。

幸いにも一番右端には、タンスではなく上着をかけるパイプラックがあり、私が仕事で着用するダウンジャケットや防寒タイプのトレーニングウェアなど が数着かけてあったので、それがクッション代わりになって、全く怪我もなく「スースー」と何事も無いように寝息たてて寝ていました。

▲奇跡的に助かった生後3ヶ月の長男。現在は26歳になり公務員として働いています。

寝室を出て、電気は点かないので、すぐに懐中電灯で部屋を照らしてみました。

するとキッチンはガラスの海、タンスやテーブルはひっくり返っており、大きなテレビ台は2~3mも移動していました。

自宅の電話は全く不通。親類に電話をかけようとしましたが、全然つながりません。その頃まだ携帯電話は一般的に普及していなかったのです。

割れているガラスに気をつけながら、外に出てみると、車の中に皆さんが非難して、カーラジオを聞いていました。

でもその時は、「何か大きな地震が・・・」程度で詳細はわからないまま。

▲割れたガラスだらけキッチンで片付けしてる29歳の私

やっとの事で公衆電話を見つけて、寝屋川市の母親に電話をしました。私は「三人とも命に別状はない」と必死に話しているのですが、母親の反応がおかしい。
母親は「さっきの地震、結構大きかったね。コップが一つ割れてしまったわ」とこんな反応なのです。

その後も何回も余震があり、そのたびに怖い思いをしました。
私の地域はありがたい事に2、3時間後電気だけは復旧してくれました。

テレビをつけると神戸の悲惨な模様。
事の重大さを理解し唖然としました。
その後、キッチンの“ガラスの海”を片付け始めました。

翌日、西宮市今津の職場へバイクで、様子を見に行きましたが、想像を絶する悲惨さ。道路は地割れして段差だらけ。水道は噴出し、阪神高速は横倒れしていたのです。
職場へ向かう道のりは、まさに地獄のようでした。

近くの市民病院は怪我をした患者が外まで溢れ、アパートはくしゃくしゃになっていました。

西宮市に向かえば向かうほど、目を覆いたくなる光景でした。

職場についてみると、鉄筋コンクリートの建物は無残にも半壊状態。

近くの木造アパートは見る影も無く、倒壊していました。

職場にお勤めだった事務員さんも、自宅が倒壊されて、この地震でお亡くなりになられました。
前日、「明日はよろしく」と帰り際に挨拶をしたばかりだったのに・・・。

その後の復旧作業も、一言で語りつくせぬ位、大変なことばかりでした。
当時、教師という職業を通して、「別れ」「苦しみ」「孤独」など多くの悲しみを肌で感じました。

また、同時に多くの「やさしさ」「ぬくもり」「感謝の気持ち」を感じることも出来ました。

まだまだ、話足りませんが、大地震を乗り越えて感じることは、「生きている」事の尊さ、「命」の大切さです。
特に『マイホーム』という場所は、安全で安心できる家族の「より所」であるべきなのです。

私は住宅の建築を請け負わして頂くと言うことは、お医者さんと同じで、お客様の「命を預かる」という重大な責任のある仕事だと常々思っております。
いくらデザインや外観が立派でも、構造がしっかりとしていなければ、ご家族皆様の本当の幸せは、やって来ないと思っています。

家づくりをお考え中のお客様に機会があれば、当時の阪神大震災のお話を必ずしています。
一番大事なものは、お金でも車でもない。家族の命が一番尊いのです。

家づくりの原点は「ご家族の皆様が安心して暮らせる家」であると私は、強く思います。

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